即身仏

即身仏
行者が山籠りを行った「湯殿山仙人沢」

即身仏とは?

衆生の難儀を代行して救済するために一身を捧げた「即身仏」

 日本国内にはおよそ十数体の即身仏が現存すると言われていますが、そのうち6体が庄内の5つの寺院に安置されています。
 江戸時代初期以降、出羽三山奥の院とされた湯殿山の修験者の中には、「即身仏」になる人々が多く現れました。修験者が即身仏になるためには、山に籠り、一千日から五千日に及んで五穀(米・麦・豆・ヒエ・粟)または十穀を断ち、山草や木の実だけの木食行を行い、肉体の脂肪分を落としていきます。死期に近づいたことを悟ると、生きたまま土中の石室または穴に入り、錫(すず)を鳴らし仏の名を称えながら息絶えました。そして死後三年三カ月を経て取り出して、若干の手当てを施し、乾燥させて、それを即身仏として崇めます。 
 即身仏になることは、苦行を通して自らの罪や穢れを除くとともに、飢饉や悪病に苦しむ衆生の難儀を代行して救済するために一身を捧げることで、自身の意思によって選びとった道でした。
この意味での即身仏が数多く出現した山は、全国でも湯殿山のほかにはないと言われています。

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真如海上人(大日坊)

 1687(貞享4)年、旧朝日村越中山で農家の長男に生まれた真如海上人。
 純真な性格の持主として育ち、幼い頃から仏門に帰依し、一生を捧げてこの世を不公平のない仏の国にしたいと願っていた真如海上人は、若いころに遭遇した天明の大飢饉で飢えに苦しむ地獄のような世のありさまを見て、人々を救うために空海のように自ら仏となり「即身仏」となって衆生を救う決心をしたといわれています。
20代より即身仏を志し、70余年の長い間難行苦行を積み重ね、1783(天明3)年、96歳で土中入定しました。

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鉄門海上人(注連寺)

1759(宝歴9)年、鶴岡市に生まれた鉄門海上人。俗名を砂田鉄といい、25歳で出家し、69世寛能和尚の弟子となり、鉄門海という名で湯殿山行者となりました。
湯殿山仙人沢で修行の後、人々が難渋している加茂坂に隧道をつくり、また江戸では、眼病が流行して悩む人々のために、自分の左眼を隅田川の龍神様に捧げ祈願し、恵眼院鉄門海上人と呼ばれるようになりました。上人の足跡は、北は北海道から南は四国にまで及び、湯殿山信仰の布教にも大きな業績を残しました。
鉄門海上人は3000日の修行の末、1829年に71歳で見事に即身仏になられました。

 

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本明海上人(本明寺)

1623(元和9)年、庄内藩の武士として生まれた本明海上人。俗名を富樫吉兵衛といい、庄内藩主酒井忠義公の病気全快祈願のため、湯殿山に詣でたことが出家のきっかけでした。湯殿山に於いて霊感を受け、行法を終えても下山しなかった為、藩主の怒りに触れ家族は追放、食録も没収となります。39歳のとき注連寺で剃髪し、その後も藩主の病気全快祈願を続けました。その甲斐あって全快した藩主は、吉兵衛の真意を悟り家族を召し抱え、本明寺の再興にも大いに賛助するに至ります。 
1673年に即身仏になるべく即身仏堂を建立し、10年間の荒行を続け、1683年、61歳で入定し、3年3ヶ月後に信者により即身仏となったことが確かめられました。
庄内地方に現存する6躯の即身仏の中では最も古く損傷の少ない姿で残されていますが、それは上人の徹底した木食行の賜物であるといわれています。

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鉄竜海上人(南岳寺)

1820(文政3)年に秋田県仙北郡仙北町堀見内に生まれ、明治になってから土中入定した鉄竜海上人。
16歳の時、故郷の秋田で友人をケンカで殺してしまい、そのまま家出して放浪(乞食)生活をして鶴岡にきて、天竜寺の住職に助けられました。
その後、鉄竜海は修行を一途に励み、熱心さが高く評価され、鶴岡出身で注連寺に安置されている即身仏の鉄門海が建立したという盛岡市の連正寺に預けられ、同寺の発展に尽力することになりました。
それから間もなく、天竜海のあとを継いで南岳寺の住職になり、1862(文久2)年に湯殿山奥の院近くの仙人沢での1000日に及ぶ山籠修行が成就。即身仏を志すが病気になり、埋葬後3年して遺体を掘り出し即身仏にしてほしいと遺言し、62歳で病死しました。しかし、1880(明治13)年に刑法が制定され、墳墓発掘と遺体損壊が禁止されたため、熱烈な信者が官憲の目を盗んで鉄竜海の遺体を墓から掘り出したとされています。

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忠海上人、円明海上人(海向寺)

全国で唯一、一寺に2体の即身仏が祀られている海向寺。

1697(元禄10)年、庄内藩の武士の家に生まれた忠海上人。俗名は富樫条右ェ門といい、本明海上人の甥にあたる人物とされています。本明海上人に憧れて注連寺に入門した忠海上人は、修行生活の後、古刹ながらさびれていた酒田・海向寺を再興しました。
その後、即身仏を志し、湯殿山の仙人沢に籠って木食行に入ったのは1753(宝暦3)年。2年後の1775(宝暦5)年2月21日、58歳で念願かなって土中入定を遂げたと伝えられています。

1767(明和4)年、現在の庄内町余目で生まれた円明海上人。佐藤六兵衛という人物の息子といわれていますが、本人の俗名は伝えられていません。
はじめ、天台宗系の羽黒山で山伏となりましたが、鉄門海上人を慕って弟子入りし、同上人と文化・文政年間に各地を布教行脚したそうです。
厳しい修行の後、1822(文政5)年5月8日、55歳で土中入定されたと伝えられています。

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