
サムライゆかりのシルク 日本近代化の原風景に出会うまち鶴岡へ
山形県鶴岡市を中心とする庄内地域は、旧庄内藩士が刀を鍬に替えて開拓した、松ヶ岡開墾場の日本最大の蚕室群をきっかけに国内最北限の絹産地として発達し、今も養蚕から絹織物まで一貫工程が残る国内唯一の地です。
鶴岡市では、松ヶ岡以外にも六十里越古道沿いの田麦俣集落に、四層構造で暮らし・養蚕などが一つの建物にまとまった多層民家が現存しています。さらに、国内ではここだけの精練工程が明治時代創業の工場で行われるなど、絹産業の歴史、文化が保存継承とともに、新たな絹の文化価値の創出にも取組んでいます。鶴岡を訪れると、先人たちの努力の結晶である我が国近代化の原風景を、街並み全体を通じて体感することができます。(申請書ストーリー概要より引用)
【構成文化財】
①松ヶ岡開墾場 ⑧風間家住宅 表門 ⑮風間家旧別邸 板塀
②松ヶ岡本陣 ⑨風間家旧宅 西側板塀 ⑯旧渋谷家住宅(致道博物館)
③松ヶ岡蚕室群 ⑩風間家旧別邸 無量光苑釈迦堂 ⑰旧西田川郡役所(致道博物館)
④松ヶ岡蚕業稲荷神社 ⑪風間家旧別邸 土蔵 ⑱旧庄内藩主御隠殿(致道博物館)
⑤松ヶ岡開墾士住宅 ⑫風間家旧別邸 表門 ⑲庄内藩校致道館
⑥旧遠藤家住宅 ⑬風間家旧別邸 中門 ⑳羽前絹練株式会社
⑦旧風間家住宅 丙申堂 ⑭風間家旧別邸 北門
“生きた業”の産業観光地 ~松ヶ岡開墾場~
明治維新の後、旧庄内藩士約3,000人(推定稼働延人員約50万人)が刀を鍬に替え、荒野を開拓し、日本最大の養蚕群を建設した松ヶ岡開墾場。ここは、庄内地域のみならず、日本全体の近代化にも貢献した“ジャパンシルク源流の地”です。松ヶ岡の開墾は、鶴岡市を中心に庄内地域で絹産業隆盛の大きな契機となり、産業面だけでなく、文化面にも大きな影響を与えました。
明治時代初期に全国的で行われた士族授産の開墾地の多くが、普通の農山村集落となっていった中で、松ヶ岡開墾場は開墾当時の形態を継続し、今日までその施設、開墾地、経営方針を維持している稀有な例であり、日本の開拓史上きわめて貴重とされています。
松ヶ岡開墾場綱領にある「徳義を本として産業を興して国家に報じ、以て天下に模範たらんとす」の教えが守り続けられ、養蚕から製糸・製織・精練・捺染(なっせん)までの絹製品生産の一貫した工程を無形の文化遺産、すなわち“生きた業”として現在に継承する、国内で唯一の地域となっています。 (申請書ストーリーより引用)
今なお残る「多層民家」
構成文化財である「旧遠藤家住宅」及び「旧渋谷家住宅」は、かつて田麦俣集落に数多く見られた兜造り多層民家の代表的なものです。屋根の姿が、武者のかぶった兜の姿に似ていることから「兜造り」と呼ばれています。
明治に入り養蚕が盛んになると、輪郭と反りが美しい「高はっぽう」と呼ばれるこの形に屋根が改造され、正面側にも採光と煙出しの窓が造られて、風格のある建物に変わっていきました。この地方は、土地が狭いうえに積雪も多く、建物の増築が困難であったため、毎日の暮らしと作業・養蚕のための部屋が一つの建物の中に階層ごとまとめられて多層の形になったと言われています。
「旧遠藤家住宅」は現在も田麦俣の地に現存しており、「旧渋谷家住宅」は致道博物館の中に移築され、どちらも内部の見学が可能です。致道博物館では、冬になるといぶり出しの行事が行われ、見学が可能です。
鶴岡の絹織物産業を支えた風間家
庄内藩の御用商人として発展した風間家の7代目当主・幸右衛門は、鶴岡の絹織物産業を支援し、自身も織物会社の社長を務めました。
「旧風間家住宅 丙申堂」は、明治29年丙申の年に武家屋敷跡に風間家の住居と営業の拠点として建てられました。薬医門(約200年前の武家門)のある商家として当時の繁栄ぶりをよく残しています。約4万個の石が敷き詰められた「石置屋根」が特徴で、主屋を中心に4つの蔵や広大な板の間と大黒柱、随所にみられる装飾細工など、豪商の往時の面影を今に伝える貴重な歴史遺産として国指定重要文化財にも指定されています。
丙申堂より約50m北側に位置する「風間家旧別邸 無量光苑釈迦堂」は、丙申堂の別邸として建てられた建物で、主に来客の接待などに使われました。
良質の杉材を使った数寄屋風建築で構造や意匠に優れ、別邸建築を考える上で貴重な資料であるとして、こちらも国の登録有形文化財に指定されています。
広い庭園には、数多くの花木があり、季節ごとにその表情を変えます。特に、白ツツジがいっせいに咲く時期(5月中旬)は最も華やかです。