未来永劫生き続ける神秘なる仏・・・即身仏

2018.12.25

以前は秘仏として、主に地元の人々たちより尊ばれてきた即身仏。ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンへの掲載や昭和48(1973)年に芥川賞を受賞した森敦の『月山』、近年では村上春樹の『騎士団長殺し』などの小説にも掲載されたことで、その存在を初めて知ったという人々が国内だけではなく、海外からも大勢訪れています。
今なお在り続け、人々の祈りを見守ってくださる即身仏巡礼の旅に出かけてみませんか?

即身仏とは・・・?

  • 画像提供:海向寺

江戸時代初期以降、飢饉や病に苦しむ人々がたくさんいました。そのような人々の苦しみや悩みを代行して救うために修行に挑み、自らの体を捧げて仏となられた方を即身仏といいます。即身仏になろうと決めたら途中で投げ出すことは許されず、修行に耐え抜いた者のみが即身仏になることができました。
即身仏となられた現在でも、人々の苦しみを沈めるために祈ってくださっていることでしょう。明治時代に法律が変わり、いくつかの法に違反してしまうため、現在では自ら望んでも即身仏になることはできません。大変貴重な仏様なのです。

即身仏になるための修行とは、どんな修行だっだの?

即身仏になるための修行は、大きく分けて「木食修行(もくじきしゅぎょう)」「土中入定(どちゅうにゅうじょう)」の2つです。
「木食修行」は、山に籠り、1000日~5000日かけて米・麦・豆・ヒエ・粟などの五穀・十穀を絶ち、山に育つ木の実や山草だけで過ごして肉体の脂肪分を落とし、生きている間から即身仏に近い状態に体をつくりあげていく修行です。
「土中入定」は、命の限界が近づいたと自ら悟ると、深さ約3mのたて穴(入定塚)の石室の中に籠ります。その中では断食を行い、鈴を鳴らし、お経を読み続ける最後の修行です。
死後3年3ヶ月後に掘り起こされ、若干の手当をしてから乾燥させ即身仏として安置されます。

※画像提供:海向寺

即身仏ってミイラとは違うの?

即身仏ってミイラでしょう?というご質問をよくいただきますが、実は全く異なります。
一般的にミイラは死後、身体の腐敗を防ぐために人工的に臓器を取り除いて防腐処理を行い、乾燥させ、布でくるんで棺に収められます。人工的に加工されていること、布でくるむことが大きな違いですが、即身仏になるために難行苦行と言われる修行に耐え抜かれたことがミイラとの最も大きな違いです。

即身仏が安置されている寺院

①不動山 本明寺【本明海上人(ほんみょうかいしょうにん)】

本明海上人は、元和9(1623)年に庄内藩主 酒井忠勝の家臣 斉藤徳左エ門の息子として生まれました。自らも家臣として仕えていた頃、藩主が大病を患ってしまい、本人の代わりに湯殿山仙人沢に籠って祈祷したそうです。そうすると、霊感が宿り、藩主の病が治ったというのです。それを機に寛文元(1661)年に39歳で出家し、仙人沢で3000日の山籠もりと木食修行を行いました。寛文9(1669)からは鶴岡市東岩本で苦行を重ね、延宝元(1673)年に本明寺本堂と即身堂を新築しました。天和3(1683)年に土中入定し、即身仏となりました。このような経緯から本明寺は、旧庄内藩主酒井家の祈願道場となっています。
庄内に現存する6体の即身仏の中で最も古く、損傷の少ないきれいな姿で安置されている本明海上人。これは、徹底した木食修行の賜物と言われています。(拝観は要予約 TEL:0235-53-2269)

砂高山 海向寺【忠海上人(ちゅうかいしょうにん)、円明海上人(えんみょうかいしょうにん)】

海向寺には、忠海上人、円明海上人、2体の即身仏が安置されています。複数の即身仏を安置しているのは全国で唯一、ここだけです。

忠海上人は、元禄10(1697)年、山形県鶴岡市鳥居町の庄内藩の武家 富樫条右衛門家で生まれました。中興初代住職として、延喜3(1746)年に海向寺の中興を成し遂げました。50歳になると、人々の苦しみを救い、願いを叶えるために自ら木食行者となって即身仏になることを決意され、難行苦行の道へ進まれました。宝暦5(1755)年2月21日、58歳で土中入定し、即身仏となられました。

円明海上人は、明和4(1767)年、山形県東田川郡栄村家根合(現山形県東田川郡庄内町家根合)の佐藤六兵衛家に生まれました。海向寺九世住職を経て、50歳で即身仏になることを決意されました。湯殿山仙人沢に籠り、五穀断ち・十穀断ちの難行苦行に耐え、文政5(1822)年5月8日、55歳で土中入定し、即身仏となられました。
即身仏に関する貴重な資料を公開

即身仏に関する貴重な資料を公開

海向寺には、修行時に身に着けていた法衣や法具、第八世住職の鉄門海上人の書など、大変貴重な資料が展示されています。(鉄門海上人は、鶴岡市の注連寺に安置されています。)即身仏になられることを決めた鉄門海上人の熱意や修行がどれほど厳しく苦しいものだったか伝わってくるような空間です。

湯殿山 瀧水寺大日坊【真如海上人(しんにょかいしょうにん)】

真如海上人は、貞享4(1687)年、山形県朝日村越中山(現山形県鶴岡市越中山)で農家の長男として生まれました。純真な性格の持ち主で、幼い頃から仏門に帰依し、一生を捧げてこの世を不公平のない仏の国にしたいと願っていました。湯殿山大権現を信仰し、大日坊を拠点として各方面に布教活動に出かけ、寺を建立し慈悲を施して社会福祉活動に勤められたため、生き仏として多くの人々より尊ばれました。一世行人を誓い、入定するまでの70余年もの長い間、難行苦行を積み重ね、天明3(1783)年、96歳で土中入定し、即身仏となられました。
春日局も訪れた徳川将軍家の祈願寺

春日局も訪れた徳川将軍家の祈願寺

大日坊は、春日局が竹千代(後の第三代将軍 徳川家光)の身体健固と将軍跡目決定のために、人知れず祈願した寺。将軍となった家光が重い病気にかかった際には、内心の旗本を代参させ病気平癒祈願を行ったそうです。春日局は大日坊へ大日如来を奉納し、お堂を再建されました。今でも、徳川家の「葵の御紋」が入った文状箱が大切に保管され、公開されています。
また、鎌倉時代に建立された国内最古の仁王門の左右には風神雷神像が安置され、その奥には「日本のミケランジェロ」とも言われる運慶作の仁王像が鎮座されています。その他にも古くから伝わる仏像の数々や旧境内にそびえ立つ樹齢1800年の老杉「皇壇の杉(おうだんのすぎ)」など見どころがたくさんあるパワースポットとしても注目されている寺院です。

湯殿山 注連寺【鉄門海上人(てつもんかいしょうにん)】

鉄門海上人は、宝暦9(1759)年、山形県鶴岡市で生まれました。21歳で注連寺に入門し、湯殿山仙人沢で修行を重ねたのち、人々が往来に難儀していた加茂坂に新しい道をつくり、また眼病が流行していた江戸では、自らの左眼を隅田川の龍神様に捧げて祈願しました。その後、僧侶となり「恵眼院鉄門海上人(えがんいん てつもんかいしょうにん)」と呼ばれるようになりました。上人の布教は、庄内を中心に北海道から関東までにおよび、多くの人々の信仰を集めました。また、「行者の神様」と尊敬され、各地に石碑が建立されています。衆生救済に生涯を捧げられ、文政12(1829)年、71歳で即身仏となられました。鉄門上人が人々の幸福を祈り続ける姿は、代々受け継がれ今、なお信仰されています。
不思議な空間に導いてくれる天井絵画

不思議な空間に導いてくれる天井絵画

芥川賞受賞した森敦著書『月山』の舞台ともなったここ注連寺の天井には、まるで美術館にいるように錯覚させるほどの絵画が描かれています。彩り鮮やかに描かれた100人の顔や黒一色で描かれているのに臨場感あふれる合掌の手、今にも動き出しそうな龍や馬、そして天女様・・・。各部屋で趣が全く違い、不思議な空間に。時間を忘れて見入ってしまいそうです。この注連寺の天井絵図はミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで★(1ツ星)の評価を獲得しています。
注連寺の境内にある御神木 七五三掛桜もその季節には見に行く価値あり。樹齢200年のカスミザクラで、色づき始めは白ですが、だんだんピンク色に変化する神秘的な桜です。(七五三掛桜の見頃:5月上旬~中旬)

修行山 南岳寺【鉄竜海上人(てつりゅうかいしょうにん)】

鉄竜海上人は、文政2(1819)年、秋田県仙北町(現秋田県大仙市)の進藤家で生まれました。湯殿山注連寺の末寺である南岳寺に入門し、注連寺などで修行を行いました。嘉永年間(1848~1854)に南岳寺が焼失したのを機に寺に戻り、南岳寺を再建。後の師である鉄門海上人が発案した加茂坂の工事では、責任者となって大変難しい工事を無事完成させました。55歳で即身仏を志し、湯殿山仙人沢に籠って1000日の木食修行などの難行苦行を達成され、明治14(1881)年、62歳で入定されました。

南岳寺では不思議なことがありました。それは、寺が焼失してしまうほどの火災に見舞われた昭和31年の出来事です。大火災だったにもかかわらず本尊と即身仏だけは無事だったと言うのです。寺には明治時代、最高裁判所で超能力を認められた長南年恵の霊堂もありました。鉄竜海上人と長南年恵の不思議な力が発揮されたのかもしれません。

庄内各地の即身仏を参拝される際の参考にこちらのパンフレットもぜひご覧ください。