日本史好き必見!徒歩で行く“歴史の里”きよかわ観光ガイドツアー

2021.10.04

こんにちは、地元ライターの國本です。

庄内町のほぼ中心に位置し、立谷沢川と最上川の合流地である清川。このエリアは最上川交通の要衝、そして出羽三山詣での登拝口として発達した宿場町で、古くは1187年(文治3年)に源義経の一行が奥州平泉へ向かう際や、1689年(元禄2年)に松尾芭蕉が出羽三山を参拝した際も、清川を通ったと言われています。

1914年(大正3年)に陸羽西線が開通して以降、舟運から汽車の利用に移ったことで徐々に衰退したものの、今でも歴史的な価値のある旧跡・文化・遺品が多く残るこの地。2019年4月にはかつて番所があった場所に「荘内藩清川関所」が復元され、まち歩きの拠点として再スタートを切りました。

恥ずかしながら歴史にはめっぽう弱い私なのですが、今回はそんな“歴史の里清川”に潜入。「きよかわ観光ガイドの会」の斎藤八重子さんより、2時間たっぷりと清川の魅力をご紹介いただきましたので、その様子をレポートします!

(※)2021年8月末に取材した内容となります。

これだけは知っておきたい!清川を歩く上で絶対に抑えるべきキーワード

清川エリアのガイドをいただく前に、最低限知っておいていただきたいキーワード3つを以下にまとめてみました。清川についてあまりよく知らないという方は是非チェックしてみてくださいね!

①戊辰戦争(1868年〜1869年)
いくら歴史に疎い私でも流石に耳にしたことのある「戊辰戦争」。薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、将軍徳川家が率いる旧幕府軍が戦った日本最大の内戦で、江戸時代の終焉と明治時代の幕開けのきっかけとなった戦いとして知られています。実は東北で初めて戊辰戦争の合戦の地となったのが、ここ清川なのです。

②清河八郎(1830年〜1863年)
清河八郎は、“明治維新の魁(さきがけ)”とも呼ばれる清川出身の志士。
作家の司馬遼太郎氏の著書「竜馬がゆく」の中では、「幕末の史劇は、清河八郎が幕をあけ、坂本竜馬が閉じた、といわれる」との記載もあるほどで、尊皇攘夷(天皇を頂点とする政治)を目指して奔走し明治維新の火付け役となりましたが、34歳の時志半ばで暗殺されました。

③北楯大学助利長(きただてだいがくのすけとしなが・1547年〜1625年)
今でこそ日本有数の米どころとして有名な庄内平野ですが、実は元々水不足で、作物の育たない荒野でした。それを現在の姿へと導いたのが、1600年(慶長5年)に当時の山形藩主・最上義光の命で狩川城主となった北楯大学助利長です。
1612年(慶長17年)に工事が開始され、紆余曲折を経て堰が完成。庄内平野の水田約8千ヘクタールが今でもこの堰の恩恵を受けています。

まずは清川まち歩きの拠点、「荘内藩清川関所」に集合!

清川ガイドツアーの始まりは、荘内藩清川関所から。こちらで今回のガイド・「きよかわ観光ガイドの会」会長の斎藤八重子さんと落ち合います。

清川関所は2019年(平成31年)4月にオープンしたスポットで、「川口番所」「船見番所」「御食事所 御殿茶屋」の3つの施設があります。上記写真はかつて最上川を通行し清川を通った方の手形の点検をしていた「川口番所」を復元したもので、その中に「御食事所 御殿茶屋」が併設されています。

最上川の舟運は古くから経済と文化の大動脈として活躍しており、1622年(元和8年)に清川関所が設置されました。当時この地は庄内の出入り口としてとても重要な場所で、江戸時代には出羽三山詣での人気にも後押しされ、登拝口であった清川には1日700人〜1,000人、年間3万人の出入りがあったそうです。

1869年(明治2年)まで関所がありましたが、江戸幕府が倒れ明治新政府により廃藩置県が行われたため、不要となった関所は取り壊されます。その後1874年(明治7年)にはこの地に清川小学校が創立されますが、その小学校も統廃合に伴い2009年(平成21年)に閉校。なんとかこの地を盛り上げたいという気持ちで地元の有志が集まり、10年ほどかけて関所を復元するに至りました。
今でも小学校があった時の名残で、関所のすぐ裏側には体育館があります。

復元の際は、運良く鶴岡市立図書館に当時の図面が残っていたため、その通りに建てたのだそう。建物自体は新しいですが、まさに当時の関所そのままを感じられるようになっているんですね!

ちなみに、建物に使われている杉の木は清川住民の持ち山の杉を町に提供したもの。関所を復元するにあたっての住民の方々の強い想いが伺えます。
また、関所に掲げられている陣幕家紋は荘内藩主酒井家のもので、建設の際現在の当主である第18代の酒井忠久氏に許可を得て作ったものだそうです。

こちらの井戸は、なんと江戸時代から関所で使われていたもの。関所が取り壊されて小学校になった際も、この井戸はずっとここにあったのだそうです。なんだかこの井戸だけ江戸からタイムスリップしてきたような気持ちになりますね!なお、現在お水は入っていないようです。

さらに清川関所には、「芭蕉上陸の地」として松尾芭蕉の像も置かれています。芭蕉は1689年(元禄2年)に「おくの細道」の旅で最上川を降り清川にて下船、その後狩川(現庄内町)、手向(読み:とうげ・現鶴岡市)、羽黒山・月山・湯殿山へと足を運んだとされています。
芭蕉ファンの方は、この銅像と一緒に記念写真を撮ってみてはいかがでしょうか。

こちらの建物は船荷の点検と税の徴収をしていた「船見番所」を復元したもの。現在関所の目の前には幹線道路が通っていますが、この番所からは今でも最上川を臨むことができます。

明治時代初期、清川には72艘の船があり、舟のりを生業にしていた方が多数存在したそうです。
「清川から酒田へ舟で向かう間、物品を運びながら舟のりはたくさんお金を稼ぎました。でも当時酒田には花街があって、そこでお金を使って家に持ち帰るお金がなくなってしまう人もしばしば。この船見番所で久々の主人の帰りを楽しみに待つ家族に見つからないよう、避けて帰ったなんて話もあるんですよ(笑)」
と、斎藤さんは裏話を聞かせてくれました。

東北戊辰戦争最初の合戦の地「御殿林」へ

清川関所を後にし、お次は御殿林へと進みます。
元々風水害に悩まされてきた清川。そのため、1717年(享保2年)に荘内藩主酒井家が防風林として3000本の苗木を植えたのがこの御殿林の始まりです。
「御殿林」という名前は、戊辰戦争の際、この林のそばに藩主の休憩所である本陣があり、それが「御殿」と呼ばれていたことからきているそうです。

取材当日は日差しの強い夏日だったのですが、御殿林へと足を踏み入れた瞬間、日差しが林に遮られちょうど過ごしやすい気温に。木漏れ日も綺麗で、すぐそばに幹線道路が通っているとは思えないほど落ち着ける場所でした。
散策路には木のチップが敷かれており、とっても歩きやすく靴も汚れません。こちらは地域の住民や企業、中学校からあつまったボランティア70名ほどで、2日間かけて敷いたものなんだそうです。

戊辰戦争の火蓋が切られた1868年(慶応4年)、幕府側の有力藩として徳川家に従事していた荘内軍は、この御殿林に本陣を置いて薩長と戦い、一歩も敵を中に入れず勝利しました。これは「清川口の戦い」と呼ばれ、東北における戊辰戦争最初の合戦として知られています。

戊辰戦争の後、杉の木には鉄砲弾が刺さったままのものも多かったそうで、清川関所の川口番所内にある展示では現物を見ることができますよ。

明治維新の火付け役!清川出身の志士・清河八郎ゆかりのスポットへ

御殿林を抜けるとすぐ現れるのが、ここ、清河八郎記念館です。(※)

清河八郎(本名齋藤正明)は、庄内一と言われるほどの裕福な造り酒屋の長男として誕生。18歳で親の反対を押し切り江戸に上った後、昌平黌(現在の東京大学)へと入学したほか、剣術では普通は3年かかると言われていた北辰一刀流兵法免許をわずか1年で取得するなど、文武ともに優れた才能の持ち主だったそうです。

(※)入館料別途。大人400円/高校生300円/中学生200円/小学生以下無料。

25歳の時、当時の江戸で唯一、学問と剣術両方を教える「清河塾」を開き、この時から清河八郎と名乗るように。名前の由来は、故郷清川に思いを馳せつつ、大河のように大きな人物になりたいという決意から「清河」、そして末広がりの八に由来して「八郎」としたと言います。

幕府側の有力藩であった荘内藩の領地で生まれ育ちながらも、地元を離れて学んだり、様々な人と出会ったりするにつれ、八郎は次第に尊王攘夷を目指すようになります。いわば反幕府の動きをしていた八郎ではありますが、そんな状況の中でも、自分の考えや江戸の状況について逐一父である齋藤豪寿(ひでとし)へ手紙を書いて報告していたそうです。その当時、豪寿が息子八郎を想って詠んだ句にこんなものがあります。

「雲井まで のぼらば帰れ 揚げ雲雀(ひばり)」

自分の目標を達成したら帰ってこい、という親心が表現されており、陰ながら息子を応援していたことが伺えます。当時の日本であれば、自らの藩主に背くようなことをする息子のことを勘当してもおかしくないのではないかと思いますが、息子を理解し応援する八郎の父の懐の広さを感じるエピソードに、すっかり感動してしまいました。

清河八郎記念館には、実際に八郎が父へと宛てた手紙をはじめ、当時の貴重な資料が多数展示されています。日本史好き、幕末好きの方は特に必見です!

なお、清川にある歓喜寺には清河八郎の生家である齋藤治兵衛家の菩薩所で、八郎や妻のお蓮のお墓があります。まち歩きの際には、こちらにも是非足を運んでみてくださいね。

“米どころ庄内の礎”・北楯大堰に沿ってのんびり散歩♪

次の目的地は、山形県内で初めて「世界かんがい施設遺産」に登録された北楯大堰です。「かんがい」とは、河川や地下水、湖などから田畑に人工的に水を引くこと。中でも世界かんがい施設遺産とは、建設から100年以上が経過し、かつ地域の発展への貢献度が高く、適切に維持管理されている施設を認定・登録する制度で、2021年(令和3年)4月現在日本国内では42施設が登録されています。

現在の黄金色の稲で一面埋め尽くされた庄内平野からは想像もつきませんが、その昔、この辺りは荒れ果てた原野が広がっていました。1600年(慶長5年)に狩川城主として着任した北楯大学助利長は、農民の苦しむ姿を見てここを水田に変えることを決意。自らの足で10年をかけて水を引く方法がないかを調査した末、唯一平地より高いところを流れているのが立谷沢川だとわかり、堰を作って川から水を引いてくることを計画します。

しかし、まず課題となったのは工事を行う人員の確保。周辺各地から人をかき集め、7,400人もの人が動員されたと言います。その中には、死刑宣告を受けた罪人も含まれていたんだとか。
当時はそこまでの人数を数える手段もなかったため、「人枡(ひとます)」と呼ばれる囲いの中に人を入れ、それがいっぱいになったら100人、という風にざっくりと数えていたそうで、八重子さんは自作の絵を用いてわかりやすく説明してくれました。

なんとか人員を確保できたのも束の間、着工からわずか13日目には山崩れがあり、16人の尊い命が失われます。この現場が、かつて源義経の一行が一夜を明かしたとされる御諸皇子神社の近くであったことから、“これは皇子様の祟りだ“と口にする人々が現れ、祟りが怖くて逃げた人もいたのだそうです。

そこで、工事の発案者兼責任者であった北楯大学助利長が考えたのが、夜のうちに甕(かめ)に金を入れて土の中に埋めておく作戦。真面目に地面を掘っていけばそれが見つかるので、見つけた人には「お前が一生懸命働いているのを神様が見てくれたんじゃないか」と伝え、そのまま中に入った金を持たせたのだそうです。その結果、人々は張り切って作業をするようになったと言います。確かにそれならば私も作業してみたい…!

このように数々の試練を乗り越え、着工から4ヶ月後には10kmの堰が完成。これが現在の北楯大堰の基となり、50年後には48の村と5,000町歩の田んぼができたそうです。まさに北楯大堰は、“米どころ庄内の礎”ですね。

ちなみに、御諸皇子神社へは、北楯大堰沿いにある「報恩坂」を登って行くことができます。石段に木漏れ日が差す様子に思わずうっとり。ただ、石段には苔が生えていて滑りやすいので、足元には十分気をつけてくださいね。

こちらが御諸皇子神社の本殿。「青葉の笛」や「祈願書」など義経にまつわる数々の品が残されています。実際に義経の一行が泊まったとされる場所にも入ることができるので、是非義経の見た景色を感じてみてください!

北楯大堰に沿って歩いていると、道と線路を挟んだところにある民家の住人を見かけた斎藤さんが声をかけます。
元々は清川ではなく余目出身だという斎藤さん。1969年(昭和44年)にこの地に嫁いだのち、53歳まで地元のJAで働き、その後もお孫さんの面倒を見つつ民生委員や子どもたちへの読み聞かせボランティアをするなど、精力的に活動をしてきました。2010年(平成22年)、62歳の時、ご主人がまちづくりに携わっていたこともあり観光ガイドの会の立ち上げメンバーに。2017年(平成29年)からは会長を務めています。

地元の良いところと人を知り尽くした人にご案内いただけるというのも、まさにガイドツアーの醍醐味ですね!

まち歩きの後は、御殿茶屋でほっと一息♪

一通りまち歩きを終えた我々は、清川関所へと戻ります。川口番所では、川口番所では、写真のように休憩をすることができる「御食事処 御殿茶屋」があり、どなたでも無料でご利用いただけます。土日祝日はこちらでお食事をいただくことも可能です。

この日私がいただいたのは、「東風(だし)そばセットメニュー(税込1,000円)」。長芋やきゅうり、めかぶなどが入った“山形のだし”がかかったお蕎麦や、旬の食材を使った小鉢、そしてデザートにそばぜんざいまでついています。一見かなりボリューム満点で「食べきれるかな?!」と思いましたが、一品一品が重くないのでスルスルと完食してしまいました。(笑)

手打ちそばや麦切り、そばぜんざいなどの単品メニューもあるので、がっつり昼食を食べたい時はもちろん、ちょっと小腹が空いた時にもオススメですよ。

きよかわ観光ガイドツアーを終えて

さて、きよかわ観光ガイドツアーはこれにて終了です。
率直な感想は、「清川エリアだけでこんなにも歴史的に重要な出来事や貴重なものがあるなんてすごい!」ということ。そして、この車移動が主な庄内において、それらに関連するスポットが全て歩いていける距離にあるというのも驚きでした。

そして何より、ガイドの斎藤さんのチャーミングな笑顔に癒されながらも、清川に対する熱い想いに心打たれる2時間となりました。

本当はここには書ききれないほどのスポットや興味深いお話がまだまだたくさんあったのですが、残りは是非、実際にガイドツアーに参加して聞いてみてくださいね!

【きよかわ観光ガイドについて】
<料金・所要時間>
・ガイド料金:ガイド1名1時間1,000円
※ガイド1名につき10名様までご案内可能

<お申込み・お問い合わせ>
以下のWEBサイトにあるフォームよりお申込みいただくか、荘内藩清川関所川口番所まで直接お問い合わせください。(お申込み期限:ご利用の7日前まで)
https://kiyokawa-historicalpark.navishonai.jp/

庄内町清川歴史公園 荘内藩清川関所川口番所
TEL・FAX:0234-25-5885
気分は戦国武将!?戊辰戦争合戦の地で甲冑体験

気分は戦国武将!?戊辰戦争合戦の地で甲冑体験

清川関所では、写真のような甲冑を無料でレンタルして着用することができます。実はこちらの甲冑、以前町のお祭りのために手作りされたものだそう。手作りとは思えないほどのクオリティですよね!
戊辰戦争の合戦があった清川の地で、武将さながらに甲冑を着てみてはいかがでしょうか。

<ライター紹介>

地元ライター:國本 美鈴(くにもと みすず)
埼玉県深谷市出身。早稲田大学国際教養学部卒業後、都内の情報・通信系企業にて新規事業立ち上げやメディアの編成・PR等を担当したのち、2019年7月〜庄内に移住。現在、庄内町地域起こし協力隊観光PR担当として、イベントの企画やSNS等を活用した地域の情報発信などを行うほか、北庄内地域通訳案内士の資格も持つ。これまで訪問した国は45カ国という大の旅好き。庄内の魅力を県内外、そして海外の人にも発信すべく奮闘中!

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