【観光の舞台裏vol.7】山伏/出羽三山宿坊 養清坊 当主 星野 博
2021.03.31庄内の観光に携わる“人”にフォーカスして、その舞台裏をインタビューする「観光の舞台裏」シリーズ。第7回目の舞台は、日本三大修験道の一つ、出羽三山です。
「月山」「羽黒山」「湯殿山」の3つの山の総称である「出羽三山」。古くから日本屈指の山岳信仰の地として知られ、この三山を巡礼することは死と再生を辿る「生まれかわりの旅」として2016年(平成28年)より日本遺産にも認定されています。
今では国内のみならず海外からも多くの方がこの地を目指してやって来る出羽三山ですが、その人気の裏には、今なお出羽三山にて厳しい修行を積みながら世の中の安寧を祈り、時にお山の案内人として修行者たちを導く「山伏」たちの存在があります。
そこで今回は、山伏であり出羽三山宿坊「養清坊(ようせいぼう)」の十八代目当主でもある星野 博さんにお話を伺いました。
夢を持ってはいけないと悟った少年時代
1961年(昭和36年)、山形県羽黒町手向(とうげ)地区(現鶴岡市)生まれ。400年以上この地で宿坊「養清坊」を営む星野家で、3人兄妹の長男として育った。
宿坊とは、お寺や神社の参拝者のための宿泊施設のこと。星野さんたちの先祖は元々羽黒山中に寺を構えていたお坊さん(清僧山伏)だったが、江戸時代中期、羽黒山第50代別当の天宥(てんゆう)が「このままただ人が来るのを待っているだけでは山の経営が成り立たなくなる」と危惧。336名のお坊さんを羽黒山麓の手向地区へと降ろし、1人1人に全国の担当エリアを与えて、そのエリアから参拝に来る方々のための宿坊を営むよう命じたことが始まりだという。
通常清僧山伏は妻をめとることができないが、この時宿坊を始めた山伏は参拝者の世話をするためそれが許され(妻帯山伏)、宿坊は親から子へと代々受け継がれた。現在、手向地区に残る宿坊は28軒。山伏が今なお生業として宿坊をやっているのは世界中でもここだけと言われているほど珍しい。
そんな特殊な環境で生まれ育った星野さんは、幼い頃から当然のごとく山伏になり宿坊を継ぐものだと思っていた。
小学校4年生のある日、学校の授業で先生から「みんなの夢はなんですか」と聞かれる。いくら手向地区とはいえ、当時はすでに宿坊を営む人ばかりではなくなっていた。友人たちが「サッカー選手」「野球選手」などと答える中、「僕は家を継ぎます」と答えると、ショックを受けた先生が涙を流す。その時初めて、自分には夢がなかったことに気づき絶望する。そして、学年が上がるごとに「僕は夢を持ってはいけないんだな」と考えるようになったのだった。
宿坊とは、お寺や神社の参拝者のための宿泊施設のこと。星野さんたちの先祖は元々羽黒山中に寺を構えていたお坊さん(清僧山伏)だったが、江戸時代中期、羽黒山第50代別当の天宥(てんゆう)が「このままただ人が来るのを待っているだけでは山の経営が成り立たなくなる」と危惧。336名のお坊さんを羽黒山麓の手向地区へと降ろし、1人1人に全国の担当エリアを与えて、そのエリアから参拝に来る方々のための宿坊を営むよう命じたことが始まりだという。
通常清僧山伏は妻をめとることができないが、この時宿坊を始めた山伏は参拝者の世話をするためそれが許され(妻帯山伏)、宿坊は親から子へと代々受け継がれた。現在、手向地区に残る宿坊は28軒。山伏が今なお生業として宿坊をやっているのは世界中でもここだけと言われているほど珍しい。
そんな特殊な環境で生まれ育った星野さんは、幼い頃から当然のごとく山伏になり宿坊を継ぐものだと思っていた。
小学校4年生のある日、学校の授業で先生から「みんなの夢はなんですか」と聞かれる。いくら手向地区とはいえ、当時はすでに宿坊を営む人ばかりではなくなっていた。友人たちが「サッカー選手」「野球選手」などと答える中、「僕は家を継ぎます」と答えると、ショックを受けた先生が涙を流す。その時初めて、自分には夢がなかったことに気づき絶望する。そして、学年が上がるごとに「僕は夢を持ってはいけないんだな」と考えるようになったのだった。
遅れてやってきた反抗期
そのまま地元の中学、高校に進んだ星野さんは、高校卒業後出羽三山神社の神主養成所に入所。当時修行期間は1年で、神主関連の授業を受けながら、神社への奉仕として所作を学んだり掃除をしたりした。その間は山頂に宿泊し、下山は許されない。18歳という多感な時期に山に閉じ込められる生活は、想像以上に辛かった。
その反動もあってか、無事養成所は卒業し神主の資格は取ったものの、両親の反対を押し切って単身東京へ。そのまま東京に移り住み、輸入品を扱う小さな輸送会社で働き始めた。当初は5年だけのつもりが、すっかり居心地がよくなりあっという間に12年が経過した。
転機が訪れたのは30歳を過ぎた頃。山伏は例年、夏になると毎日のように参拝者を連れて月山から湯殿山まで歩いて案内をする。まさに体力勝負の世界だが、久々に父の姿を見て「親父も歳をとったな」と感じる。そろそろ自分がやる番だな、と腹をくくり、後を継ぐことを決意したのだった。
その反動もあってか、無事養成所は卒業し神主の資格は取ったものの、両親の反対を押し切って単身東京へ。そのまま東京に移り住み、輸入品を扱う小さな輸送会社で働き始めた。当初は5年だけのつもりが、すっかり居心地がよくなりあっという間に12年が経過した。
転機が訪れたのは30歳を過ぎた頃。山伏は例年、夏になると毎日のように参拝者を連れて月山から湯殿山まで歩いて案内をする。まさに体力勝負の世界だが、久々に父の姿を見て「親父も歳をとったな」と感じる。そろそろ自分がやる番だな、と腹をくくり、後を継ぐことを決意したのだった。
一度離れたからこそ気づいた生まれ故郷の魅力
昔は当たり前だと思っていた地元の風景や風土。しかし一度外に出てみたことで、出羽三山がいかに魅力的な場所だったかということに気づかされる。次第に「こんな素晴らしいものを多くの人に伝えたい」という気持ちになり、地元に戻ってから自発的に出羽三山の歴史背景を勉強するようになった。
そして40歳の時、2回目の山伏修行で山に入ることに。同じく修行をしていた中に手向の若い人たちがいて、寝食を共にするうちに仲良くなり、休憩時間のたびに色々と話をするようになった。すると次第に、皆このままこの土地で生きていくことについて将来的な不安を感じていることに気づく。
自分たちで何か仕掛けていかないといけない。そう考えた星野さんたちは、修行を終えてから手向を盛り上げるためのグループを立ち上げることに。「蜂子皇子の山伏としての教えのもと集まった者たちで山を鼓舞しよう」という思いから、その名を「蜂鼓山社中(はちこやましゃちゅう)」とした。
そして40歳の時、2回目の山伏修行で山に入ることに。同じく修行をしていた中に手向の若い人たちがいて、寝食を共にするうちに仲良くなり、休憩時間のたびに色々と話をするようになった。すると次第に、皆このままこの土地で生きていくことについて将来的な不安を感じていることに気づく。
自分たちで何か仕掛けていかないといけない。そう考えた星野さんたちは、修行を終えてから手向を盛り上げるためのグループを立ち上げることに。「蜂子皇子の山伏としての教えのもと集まった者たちで山を鼓舞しよう」という思いから、その名を「蜂鼓山社中(はちこやましゃちゅう)」とした。
(画像提供:羽黒町観光協会)
蜂鼓山社中がまず取り掛かったのは、羽黒山の中腹にある県の指定史跡・南谷(みなみだに)の整備だ。ここにはかつて別院紫苑寺という建坪700坪の広大なお寺があり、松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅の途中で1週間ほど宿泊していた場所。しかし2001年(平成13年)当時はすっかり荒廃しており、周りにあった池も涸れていたという。
そこで星野さんたちはこの地を復元すべく活動を開始。泥を掘り上げたり、枯葉を片付けたりと、地道な作業を続けた。初めは十数名で行っていたが、ボランティアを募集したところ述べ400名もの人々が参加。寺の礎石や池、庭園跡などが確認できるまでになり、再び人々がここを訪れるようになった。この池に水が湛えられたのは、実に320年ぶりのことだったという。
蜂鼓山社中がまず取り掛かったのは、羽黒山の中腹にある県の指定史跡・南谷(みなみだに)の整備だ。ここにはかつて別院紫苑寺という建坪700坪の広大なお寺があり、松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅の途中で1週間ほど宿泊していた場所。しかし2001年(平成13年)当時はすっかり荒廃しており、周りにあった池も涸れていたという。
そこで星野さんたちはこの地を復元すべく活動を開始。泥を掘り上げたり、枯葉を片付けたりと、地道な作業を続けた。初めは十数名で行っていたが、ボランティアを募集したところ述べ400名もの人々が参加。寺の礎石や池、庭園跡などが確認できるまでになり、再び人々がここを訪れるようになった。この池に水が湛えられたのは、実に320年ぶりのことだったという。
“不易流行”の精神で町おこし
蜂子山社中のもう一つの大きな活動として、月山の山小屋の復元が挙げられる。
現在は8合目までバスで行き、そこから徒歩で山頂へと登るのが一般的だが、かつて全て歩いて登っていた頃は旧道にいくつもの山小屋が建っており、大きいものだと一晩に100人ほど宿泊ができたという。しかし、例のごとく石組みがどこにあるかもわからない状態であったため、まずはその石組みを表出させるところから始まり、次に石組みの上にブナの木で骨組みを作って藁をかぶせる作業を行った。
すると、初めは馬鹿にしていた年配の方々も、次第に楽しくなって手伝ってくれるように。作業をしながら年配の方々との交流が生まれ、「昔はこうだった」と教えてもらいながら、とうとう山小屋を復元した。
現在は山小屋そのものは残っていないが、引き続き跡地の整備をしているという。
現在は8合目までバスで行き、そこから徒歩で山頂へと登るのが一般的だが、かつて全て歩いて登っていた頃は旧道にいくつもの山小屋が建っており、大きいものだと一晩に100人ほど宿泊ができたという。しかし、例のごとく石組みがどこにあるかもわからない状態であったため、まずはその石組みを表出させるところから始まり、次に石組みの上にブナの木で骨組みを作って藁をかぶせる作業を行った。
すると、初めは馬鹿にしていた年配の方々も、次第に楽しくなって手伝ってくれるように。作業をしながら年配の方々との交流が生まれ、「昔はこうだった」と教えてもらいながら、とうとう山小屋を復元した。
現在は山小屋そのものは残っていないが、引き続き跡地の整備をしているという。
(画像提供:羽黒町観光協会)
それまでは何かにつけて「今の若い衆は…」と言われることが多く年配の方々とはそりが合わないことだらけだったが、これらの活動をきっかけに一気に距離が縮まる。
「松尾芭蕉が出羽三山参りによって説いた俳諧の理念に“不易流行”がある。不易流行とは、つまり時代を経ても変わらないものと時代と共に変化するものがあるということ。活動をする中で、ここは変えたらマズイだとか、ここは今の時代に沿ったやり方でできるんじゃないかということを、あーだこーだと言われながら年配の方々と話し合うことができたおかげで、そのほかの取り組みにも繋げていくことができた。」
かつて夢がないとふてくされていた少年は、いつの間にか町の夢を背負う若者のひとりへと成長していたのだった。
それまでは何かにつけて「今の若い衆は…」と言われることが多く年配の方々とはそりが合わないことだらけだったが、これらの活動をきっかけに一気に距離が縮まる。
「松尾芭蕉が出羽三山参りによって説いた俳諧の理念に“不易流行”がある。不易流行とは、つまり時代を経ても変わらないものと時代と共に変化するものがあるということ。活動をする中で、ここは変えたらマズイだとか、ここは今の時代に沿ったやり方でできるんじゃないかということを、あーだこーだと言われながら年配の方々と話し合うことができたおかげで、そのほかの取り組みにも繋げていくことができた。」
かつて夢がないとふてくされていた少年は、いつの間にか町の夢を背負う若者のひとりへと成長していたのだった。
「このためにやってきた」と思える瞬間
蜂鼓山社中の取り組みの中でガイドをやったりしていたご縁もあり、6年前からは羽黒町観光協会長も務めるなど、一個人として精力的にまちづくりや町の観光にも携わってきた星野さん。活動は身を結び、一時期は70万人程度まで落ち込んだ参拝者も今では80〜90万人と少しずつ回復してきている。しかし何と言っても一番嬉しいのは、山伏として関わった修行者たちが前向きになっていく姿を見ることだと言う。
山伏の中でも、一般の山伏の指導をする立場にある4人の山伏は“四役者”と呼ばれ、それぞれ異なる役割がある。星野さんはそのうちの1人の“駆の先達”として、毎年夏に全国から訪れる160名ほどの修行者たちを今でも導いている。
修行では、日中は夕方まで拝所に向けて歩き、着いたら拝むというのをひたすら続け、行堂に帰った後は19時ごろから朝の4時頃まで再び拝み続ける。そして次の日また朝から拝所に向けて歩き出すということを1週間繰り返す。
修行に訪れる方の多くは、自分を変えたい、見つめ直したいと思っている方や、行き場をなくしてどうすればいいかわからないという方たちだ。しかし1週間の修行が終わると、その人たちが目に見えて自分に自信を持ち始めるのがわかるのだそうだ。
「自分でも耐えられたという感動で、修行が終わった瞬間泣く方もいる。山伏はひたすら世の中の安寧のため、つまり人々のために祈るが、修行を通して前向きになった人々を見ると、ああ、自分は今までこのためにやってきたんだなぁ、と思う。」
そう言いながら、星野さんはにかっと笑った。
山伏の中でも、一般の山伏の指導をする立場にある4人の山伏は“四役者”と呼ばれ、それぞれ異なる役割がある。星野さんはそのうちの1人の“駆の先達”として、毎年夏に全国から訪れる160名ほどの修行者たちを今でも導いている。
修行では、日中は夕方まで拝所に向けて歩き、着いたら拝むというのをひたすら続け、行堂に帰った後は19時ごろから朝の4時頃まで再び拝み続ける。そして次の日また朝から拝所に向けて歩き出すということを1週間繰り返す。
修行に訪れる方の多くは、自分を変えたい、見つめ直したいと思っている方や、行き場をなくしてどうすればいいかわからないという方たちだ。しかし1週間の修行が終わると、その人たちが目に見えて自分に自信を持ち始めるのがわかるのだそうだ。
「自分でも耐えられたという感動で、修行が終わった瞬間泣く方もいる。山伏はひたすら世の中の安寧のため、つまり人々のために祈るが、修行を通して前向きになった人々を見ると、ああ、自分は今までこのためにやってきたんだなぁ、と思う。」
そう言いながら、星野さんはにかっと笑った。
この文化を絶やさないために
星野さんの宿坊の担当エリアは新潟県新発田市と千葉県市原市。今年はコロナ禍で不可能となったが、例年であれば3月は担当エリアに出向き、檀家まわりをすると言う。そして、夏になるとその地域の方々が出羽三山にやって来るという仕組みだ。以前は他の地域にもそういった活動をしていた場所があったが、今なお続けているのは全国でもここ手向地区のみとなった。
こういう文化を絶やしてはいけない。そういった想いもあり、現在羽黒町観光協会では、日帰りからできる山伏修行体験塾など、一般の方々に門戸を開いて出羽三山や山伏について知っていただく機会を設けている。
最後に星野さんに今後の展望を聞くと、こう答えた。
「世界に向けてこの日本の秘境を伝えていきたいという想いもあるが、手向の人口減少、伝統の催事の担い手不足など、神社などとも連携して対応していかなければならない。これからは観光は優秀な若い人たちにお任せして、俺は伝統を守っていく方をやっていきたいなぁ。」
あーだこーだと口を出して時に若者たちに煙たがられながら、なんだかんだ一緒になって何かに取り組んでいく。そんな星野さんの姿が、はっきりと目に浮かんだ。
【羽黒山基本情報】
住所:山形県鶴岡市羽黒町手向
アクセス:
<バス利用>
・鶴岡駅から庄内交通バス羽黒山行きで50分(終点下車)
・随神門から山頂まで石段を登る場合、又、国宝羽黒山五重塔を拝観する場合は、同バスで「羽黒随神門」下車
<車利用>
・山形自動車道 庄内あさひICから山頂まで車で約40分、随神門まで約30分
・JR鶴岡駅から山頂まで車で約30分、随神門まで約20分
・庄内空港から山頂まで車で約45分、随神門まで約35分
羽黒山観光に関するお問い合わせ:羽黒山観光協会
【出羽三山関連記事】
今更聞けない!日本有数のパワースポット出羽三山とは
出羽三山の恵みをいただく“おいしい修行”−羽黒山参籠所「斎館」
世界が認めた霊山を歩く「出羽三山参り」
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「世界に向けてこの日本の秘境を伝えていきたいという想いもあるが、手向の人口減少、伝統の催事の担い手不足など、神社などとも連携して対応していかなければならない。これからは観光は優秀な若い人たちにお任せして、俺は伝統を守っていく方をやっていきたいなぁ。」
あーだこーだと口を出して時に若者たちに煙たがられながら、なんだかんだ一緒になって何かに取り組んでいく。そんな星野さんの姿が、はっきりと目に浮かんだ。
【羽黒山基本情報】
住所:山形県鶴岡市羽黒町手向
アクセス:
<バス利用>
・鶴岡駅から庄内交通バス羽黒山行きで50分(終点下車)
・随神門から山頂まで石段を登る場合、又、国宝羽黒山五重塔を拝観する場合は、同バスで「羽黒随神門」下車
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・山形自動車道 庄内あさひICから山頂まで車で約40分、随神門まで約30分
・JR鶴岡駅から山頂まで車で約30分、随神門まで約20分
・庄内空港から山頂まで車で約45分、随神門まで約35分
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<ライター紹介>
地元ライター:國本 美鈴(くにもと みすず)
埼玉県深谷市出身。早稲田大学国際教養学部卒業後、都内の情報・通信系企業にて新規事業立ち上げやメディアの編成・PR等を担当したのち、2019年7月〜庄内に移住。現在、庄内町地域起こし協力隊観光PR担当として、イベントの企画やSNS等を活用した地域の情報発信などを行うほか、北庄内地域通訳案内士の資格も持つ。これまで訪問した国は45カ国という大の旅好き。庄内の魅力を県内外、そして海外の人にも発信すべく奮闘中!
【作成記事】
・日本史好き必見!徒歩で行く“歴史の里”きよかわ観光ガイドツアー
・まるで天空散歩!美しい高山植物に出会える月山八合目弥陀ヶ原ガイドツアー
・まだ知らない羽黒山に出会える?!地元ガイドによる羽黒山ツアー
・神秘の泉に魅せられる!庄内屈指の映えスポット・丸池様
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・親も子も大満足!庄内“子連れ旅”おすすめスポット
・【観光の舞台裏vol.8】藤島歴史公園「Hisu花」ワークショップ リーダー 井上夏
・【観光の舞台裏vol.6】時を奏でる宿 若葉旅館 若旦那(専務取締役) 矢野 慶汰
・【観光の舞台裏vol.5】庄内飛龍會 会長 柿崎 淳
・【観光の舞台裏vol.4】「菜の花まつり」事務局 三川町観光協会 今野 徹・澤田 佳子
・【観光の舞台裏vol.3】道の駅鳥海ふらっと駅長 白畑 正照
・【観光の舞台裏vol.2】舞娘茶屋「相馬樓」芸妓 小鈴
・【観光の舞台裏vol.1】加茂水族館ボランティアガイド「岩ゆり」会長 石名坂績
埼玉県深谷市出身。早稲田大学国際教養学部卒業後、都内の情報・通信系企業にて新規事業立ち上げやメディアの編成・PR等を担当したのち、2019年7月〜庄内に移住。現在、庄内町地域起こし協力隊観光PR担当として、イベントの企画やSNS等を活用した地域の情報発信などを行うほか、北庄内地域通訳案内士の資格も持つ。これまで訪問した国は45カ国という大の旅好き。庄内の魅力を県内外、そして海外の人にも発信すべく奮闘中!
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